箱田良助

 「箱田良助」という名前を聞いて、「あっ、知っている。」という人は、まずいないでしょう。地元の神辺に住んでいる人もほとんど知りません。真中の写真の記念碑ができたのがごく最近のことなのですから。では、伊能忠敬は知っていますか?榎本武揚は知っていますか?菅茶山は知っていますか?これは聞いたことがある、知っていると答える人が多いことでしょう。日本地図や戊辰戦争・廉塾で有名ですから。箱田良助はこの人たちと深いつながりがあるのです。
 では、伊能忠敬の足跡を追いながらこの人たちの関係を見てみましょう。50歳で家を長男に譲った伊能は、残された人生を人のために役立てようと、56歳から全国を回り日本地図を作るための測量を始めました。1回目・2回目は自分のお金で東北・北海道の測量を行い、できた地図を幕府に差し出しました。これが公に認められ、3回目からは幕府の仕事として測量を続けました。
 3回目・4回目の測量で、日本の東半分の地図が出来上がった1804年、菅茶山が江戸に行っています。この時、伊能忠敬と菅茶山が出会ったのではないかとも考えられます。菅茶山の廉塾では、
細川家の子どもの多くは廉塾の門下生になり、細川(箱田)良助も学びました。
 5回目は、東海道から、紀伊半島・中国地方の測量をしました。このころの、1807年、細川良助は伊能忠敬の内弟子になりました。おそらく、菅茶山の紹介によったのではないかと思われます。実際、良助以外にも廉塾の門下生が何人か伊能の弟子になっています。
 6回目に四国を測量した後、7回目に山陽道から九州の測量にとりかかります。この時の、1809年11月27日に神辺西本陣に泊まりました。このとき、菅茶山が伊能を訪ね、伊能のために漢詩を贈っています。また、1810年には、細川良助の親の家(良助の生家)を宿にしています。このときから細川良助は地図作りの測量に正式に同行するようになりました。
 8回目の測量のため九州に向かう途中、1812年、本陣に寄った伊能を菅茶山が訪ね、日本地図をもらったと菅茶山が記録しています。1814年には、箱田良助が廉塾を訪ね、九州測量の様子を話しています。
 9回目は、伊豆七島や富士周辺の測量を弟子だけで行いました。10回目には内弟子筆頭になり、測量を全てまかされて江戸内の測量を行い、1818年74歳で他界します。この後、門弟の協力で初めての日本地図が完成します。
 1821年、50両をはらって
女の子しかいなかった榎本家の養子になり、榎本姓を名乗るようになります。箱田良助は、百姓の子どもだったため、最初は菅茶山の遠縁にあたるといっていましたが、それでは榎本家に受け入れてもらえず、結局菅茶山の弟だということで話がまとまったという話もあります。このころには、菅茶山は福山藩から認められ、武士と同じ扱いをうけるようになっていました。
 
学問に情熱を傾けていた箱田良助はこのころから出世を夢見るようになり、幕府の要人として活躍するようになりました。榎本園兵衛(箱田良助)に名前を変えたと同時に別人が現れたようにも思えます。そして、榎本園兵衛の二男として生まれたのが榎本武揚です。
  


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